グダログ。

グダグダをログする。

死の定義

私はお父さんの自殺の話を、誰にもきちんとしたことがない。


若くしてなくなったお父さんを、なんか脳の病気で突然死んだってことにしてる。


だってお父さんが自殺したなんて、重すぎるでしょ。


でもずーっと嘘をついてることにどこか負い目がある。言ってもしょうがないから言わないけど、人を欺くのって、どんな理由でもなんとも言えない気持ちになるものだ。


だってお父さんの脳味噌も心臓も身体も、まだまだしっかり動いていて、鼓動していたのに。


でもこころだけが、動き続ける身体に追いつけなくなって、たまらずズタズタに壊してしまった。


まだ使える身体だったのに。


命ってなんだろう。脳が死んだら意識がないから、身体が動いていてももうその人はここにいないってことになる。ほんで、生きている身体はリサイクルに回されたりなんかする。


でもこころが死んだ時って、どうなんだろう。ほぼ命がないのに等しかったりするんだろうか。


もし、お父さんのこころが死んでしまって、その身体だけがそこにあったら、それは、そもそもお父さんだったのだろうか。そんなお父さんを、私は受け入れられたのだろうか。まさか死ぬとは思わない相手に、優しくできたのかな。


死んでしまった今だから、どんなお父さんだって、そこにいて欲しかったのに、なんてわかったようなこと思ってるけど。


本当に、死ぬってことがどういうことなのか全然わかってなかった当時の私に、そんなこと思えたのかな。優しく、いてくれているだけでいいんだよなんて、言えたのかな。いて当たり前だと信じて疑わないまだ無知な私に、そんなこと、できたのかな。


悲しい。悲しい。悲しい。


お父さんに会いたい。


なんで私ばっかり。なんで私ばっかりこんな思いをして、その後も、人に怯えて、嘘をついて、平気なふりしてまで生きていないといけないんだろう。


なんで私ばっかりこんな何度も同じことで泣かないといけないんだろう。


なんで私ばっかりいつもいつもひとりなんだろう。


なんで私ばっかり無理して笑ってないといけないんだろう。


なんで私ばっかり平気なフリしないといけないんだろう。


なんで私には。なんで私には。なんで私には。


生きている理由が見つからないんだろう。


なんでまだ私は生きていないといけないんだっけ。


お母さん以外に、その理由が何一つ見つからないまま。



視野狭窄

客観的に見てそうなんだろうな。

自分のことを客観的になんて永久に見られるわけないから、見てるような気になってるだけだけど。まぼろし


視野が、狭窄している。ぎゅぎゅっと。


どうしたら拡げられるんだろう。ぶわっと。


最近は祖父と父に連なる自分の血が怖くなる。


人が、怖い。


人に無慈悲な自分も、怖い。


自分を拡げようと必死に手を伸ばしても、振り払われるのが怖くてすんでのところで触れられない。


人に裏切られるのが怖い。だって、私も裏切るから。いっぱいいっぱい裏切って、生きてきたから。いつだって自分の都合で、いつだって自分に都合よく。


だって自分がかわいいもん。


自分が幸せで快適にいるためなら、人を裏切るよ。無意識に?いや、どこかでわかっているはず。でも人に優しくなんてこころがけは、自分のピンチの前にはあわのように跡形もなく消え去ってしまう。誰だって、とは言えない。人のことなんてわからないから。でも裏切られて傷付くそのこころの奥底で、さもありなんと思っている。だってそのこころそのものが、今まで人を裏切って来たのを、身をもって知っているから。私たちってそういういきものだよね、って、さみしげにほほえんでいる。自分に嘘はつけない。使い古されたちんぷなことば。でも、苦しいほどに真実だ。


好きな人に好きになってもらったことがない。


そんな奇跡起こる人が羨ましい。


大抵どちらかの一方通行か、好きよりもっと手前の妥協だか惰性だか慣性だかで一緒にいる、みたいなしけった経験しかないので、好き!俺も!みたいなビビビな人たちを見ると甘じょっぱい気持ちになる。


別にいいんだ、始まりは一方通行でも。でも、あ、なんか好きかも、から徐々に歩み寄ってお互いが一緒くらいの熱量になる瞬間が一瞬でもあればいいんだけど。思い出す限りない、と思う多分知らんけど。


今また好きな人ができてしまって、そしてそれは永久に叶わなくて、なんて無意味な感情かと思う。存在価値がないどころか、私を無駄に苦しめる忌まわしき邪念。


しんどいからさっさと嫌いになろうと努力する日々。


頃合いの、ちょうど嫌いじゃないくらいの人が、私を憎からず思ってくれる、くらいが一番平穏なんだけど、そんな都合のいい話はどこかに転がっていないものか。

今週のお題「雨の日の過ごし方」

豪雨が割と好き。


や、正確には休日に部屋で引きこもってる時に、建物を打ち付けている激しい雨音が聞こえてくるのが、たまらなく好き。


外と内との境界線がすごくクリアになって、今、何かに守られているって感じがすごくいい。


そういう中で本とか読める瞬間は、本当に幸せ。この豪雨が自分の休みに重なって、なおかつ出かける予定もないなんて、そんな奇跡みたいな日ってそうそうないと考えると、いや増す多幸感。


一転、外出に被ると本当最悪だけどね。なんで科学技術が飛躍的に発達して人類は月まで行ってんのに、こと雨に関しては傘とかカッパとか物理的に遮るっていう原始的な対処法しかないんだよって毎度腹が立つ。江戸時代からほとんど進歩してないじゃん!牛歩の極み。


頭のいい人たちは宇宙に行くとか壮大なプロジェクトにその貴重な知能をさいてないで、目先の生活を発展させる研究してくれよって切に願う。


頭のいい人、結構なビジネスチャンスだと思いますよ、画期的雨具の開発。後生ですからなんとか考えて頂けませんでしょうかね。


過ごし方とか関係ない話になっちゃった。


自殺遺伝子

https://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/health/186757/


ふうん。


遺伝子ってことはないだろうと思うけど、身内に自殺者がいると、思考がひっぱられる、ってのはあると思う。


そもそも自殺が対岸の火事である内は、悩んだ時の選択肢に自殺は入りづらい。想像もつかない突飛な選択肢だろう。


でも身内に自殺者がいると、俄然現実味を帯びて、やすやすと選択肢に入って来てしまう。


親が離婚してると子も離婚しやすかったり、親が若いうちに子供産んでると子もまた若くして子を産んだり、そういうのと同じ理論だと思うけど。


そう考えるとうちは私の知る限り祖父、父と続いていて、母は私がそんな忌まわしき伝統を継承しやしないかと静かに怯えているのだけど。


絶対にしないと思う。だって怖いし。

よくあんな怖がりの父さんが自分で死ねたよなって未だにちょっと信じられない。


あと、父方の弱さのせいで南国のカラッとした家系の母さんを散々苦しめたことに、北国の陰鬱な一族の一員として申し訳ない気持ちもあるので、これ以上迷惑かけたくない。


父さんがもっと強かったら、太陽のように笑う母さんはもっともっとカラッと楽しい人生を歩めたのにって思うと、本当に辛い。


でも悲しいことに、私は父さん似。お調子者で一見明るく見えるけど、心に深い闇を飼ってしまっている、北国の空のようにジメッとしたやつなのだ。


自殺遺伝子なんてマユツバだけど、仮にあったとしても、私は絶対にそんなクソみたいな遺伝子書き換えてみせる。


大した幸せもないくだらない人生だけど、こんな私をただ愛してくれる母親がいる間は、絶対に生き延びてやる。


しかしメンヘラちっくで嫌な日記だなぁ。でもまぁしょうがない。私の生い立ちがどうあがいてもメンヘラ仕様なもんでね。。

父の日におもったこと

もういなくなって20年も経つのか。

早いなぁ。

 

父の日って、私なんかしたことあったかなぁ。

 

お父さんが生きてたら、きっと今、楽しかったんだろうなぁと夢想する。クラプトンやマッカートニーのコンサートに一緒にいったり、ジャズ聴きにブルーノート行ったり、ヨドバシ一日中こもったり、映画見たり、能を見たり落語見たり、スコッチ飲んだり、話題の新刊読んだり、今わたしがやりたいことややってみたいこと全部、お父さんに言ったら「俺も!」って言って、色々調べてくれて、お父さんと、お母さんと、3人であちこち遊びまわってたんだろうなぁ。

 

でも変な話で、お父さんが生きてたら、今のわたしはこれらのことにそんなに興味なかったかもしれない。

 

お父さんが死んでからの私の興味は、知らず知らずお父さんの面影をなぞっている。

 

もし生きていたら、お父さんもただのありふれた日常の一部でしかなく、こんなに思い焦がれることはないのだろうから、私の興味は全く他所に向いていたかもしれない。当たり前のことだけど、数々の出来事の影響を受けて、私という人格は決まっている。

 

今の私の大部分が、「お父さん」というより「お父さんの死」というライフイベントによる多大な影響を受けて形成されていて、私の嗜好は、お父さんのそれと同じになってしまったのだなと改めて思う。

 

村上春樹」を除いては。